服作りの楽しみ

服のことを365日考えている。

次は何を作るか、というのを毎日考えている。

僕はシュールレアリスムの思想が好きで、ついそれに影響される。

背面にポケットつけたり、関係のない絵を配置してみる。「これ何?」「なにこれ」と見た側が思う服を作りたいとどこかで思っている。

去年発表した「夢をみる猫」(↓画像)

意味がわからん。なんだこれ。今見ても意味がわからないんだけど

コーヒー片手にくちびるバナナを想像しとる猫って何?とか思うんだけど

僕が見る側なら作者は何を思ってこれつけたねんって思う。ちょっとまじめに作った結果がこれっていうのはちょっと面白い。

観ている人は僕がまじめな顔して歩いてるし

アートを見るような目でなにか意味を考えてた奴はいるんだろうか。?

正直当時は最高にイケテルと思っていた。



話を戻します!

こういうシュールな面を兼ねている服、というのが好きで、今は特別考えてはいないがポケットの位置とか仕組みは大いに僕に染み付いている。癖となって

毎回ポケット位置や何をつけるかをパターン上に記入したりはしない。ある程度頭の中でイメージを固めておく、そして裁断しボディにくっつけてみる。


頭にあったイメージのまま進むときもあるけど、たいていは作ってる途中に布の動きや偶然できた形とかで作り変える。ポケットは裁断はしてあるが位置はぶっつけ本番である。

設計図に沿ってただ組み立てるのは面白くない。


カスタムしながら組み立てて、まったく別の物が生まれる瞬間を待っている。

この作り方をするようになってからは、だらだらとトワル組みをしたりパターンで頭をうーんうーんと唸らすことは少なくなった。

なのでスピード感が違う、定規で線を引きまくる手間を最小限にしている。

一人がトワル組をしている間に一着できるくらいのスピードの差を出せる。

スピード感をあげるということは試行数が単純に増えるので伸びる。

これは服作りだけではなくすべてのことに該当するが、いかに多く人よりやるか。

イチローだって誰よりもバットを振ったはずだ。

山本耀司もとにかく服は数を作れと言っている。



整合性のあるパターンを目指すとどうしても平面製図によって想像力だけに限定される。

時間もかかる。

紙と向き合って生まれる物は限られていると思う。

しかし布が実際に重力によって落ちている所を見ると、想像力は拡張される。


服がもう嗜好品となっている今、縫い方や寸法が合っているかとかのクオリティは価値を見出さないと思っている。成熟化しすぎている。

今は”アイデア”や”偶然生まれた布のカタチ”とかのほうが重要で、それでもってクオリティあげたければパターンナーや工場の縫い子さんと協力して整えてもらったらいいのだ。


こうやって作っているともちろん想像している服より悪くできることもあるが、

想像を超えてきた服が完成したときの高揚感は完全な空腹時、うな重(大盛り)を1年ぶりに掻きこんでいるときに匹敵するのだからやめられない。







MYMINESIGNのたまりば

kanagawaの服と音と言葉の庭 合理性と非合理性をつなぐ

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